森田療法 論文アーカイブス 9

森田療法
編纂:藤田千尋
【目次】
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1 森田療法とは何か|藤田千尋
2 森田療法の成立とその時代的背景|藤田千尋
3 森田説における生の欲望|藤田千尋
4 神経質の発生過程|藤田千尋
5 森田療法の特徴とその治療過程|丸山 晋
6

森田療法における臥褥と作業の意味|丸山 晋

7

森田療法における集団療法的意味|丸山 晋

8

森田療法における外来治療|丸山 晋

9

森田療法における治療者・患者関係|丸山 晋

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森田療法への批判と期待|藤田千尋


1)森田療法とは何か
藤田千尋(精神科医)



 森田療法とは、森田正馬(1874-1938)が1918年頃から始めた彼のいわゆる神経質に対する精神療法である。彼は、従来からその概念も喫味であった神経衰弱について、多くの臨床的経験を重ねることにより、新たな学説を立てて、これを神経質(森田は、神経症をこの神経質とヒステリーとに分けた)とよぶと共に、これに対する治療法を創案し,神経質の特殊療法として発表したが、それは1922年,彼が46歳のときであった。この治療法は、やがて彼の名を冠して森田療法と称されるようになったが、それは、森田の卓見とこの療法のユニークさを賛えるためのものと思われる。
 森田によれば、この療法を確立するに至るまでほぼ20年に近い試行錯誤の期間があったというが、それだけに,この治療原理や方法には、その後大きな修正は見られていないし、現代においてもなお、今日的な意義は失われていない。このことについて,高良は、森田療法に備わる条件として、その治療原理が理解されやすく,治療の実施も容易であり、しかも治療効果の大きいことをその主な理由に挙げているが、これはきわめて妥当なことである。ところで、森田療法の独自性は、その治療的方法や治療原理もさることながら、何よりもこれを背後から支える森田の人間観とか世界観にあるといえる。一般に,森田療法は、臥褥と作業とがその特徴と考えられているが,これらの方法は、森田が述べていることからも判るように,S.ワイルミッチェル、P、デュポアあるいはO.ビンスワンガーなどを参考にしたものであり、その方法的なものは、決して彼の創業したものではない。
 しかし、これらを森田の治療法として独自なるのたらしめるものは、長い日本の伝統的文化や風土の特質、あるいは日本人の思惟様式にほかならない。そのような視点から森田療法の特徴を考えると。およそ次のように理解される。森田が神経質とよんだ状態の概念は,その人たちのもつ「生の欲望」と、それと表裏の関係にある「ヒポコンドリー性基調」とが、互いに矛盾しながら関与しあう精神の詰抗作用に,神経質としての生の現実を見出そうとする森田の人間観から導かれている。しかも森田の疾病論的な見方にも、外的、客観的な自然界に対して、そのあるがままの意義を認めようとするのと同様に,人間の自然の性情をも、そのまま受容するという態度があり、神経質が示す個々の症状の意味を重視するよりも,これを全人格的な表われとして受けとめ,しかもそれを病的なものとする認識を退けた。さらに,治療の基本は、「生活機能の自然良能の補助、助長にある」との考えを貫いた。したがって、森田療法は、自己本来の人間性の回復に向って、単なる知的理解をすすめる働きかけをするだけではなく、臥褥,作業,治療者・患者関係、実生活的実践という行動手段を有機的に調節統合して働きかける総合的に体系づけられた精神療法である。




2)森田療法の成立とその時代的背景
藤田千尋(精神科医)

 

 およそ神経症の理論やその治療法について、正しい理解を進めるためには、その発想の由来を状況的に問うことが必要であることはいうまでもない。この状況的という言葉の意味は、神経症のような全人格的な事象を、ただ単に客観的に抽出された対象として考察するだけではなく、変化する文化の中の事象として問うための生きた関わりを表わすものである。そのような意味から,森田療法の成立を,それに影響を与えたと思われる時の学問的動向と森田の思想との関連から考察する必要があるように思えるが、紙面の関係もあるので,その概要を述べるにとどめたい。

 森田の学問的立場
 森田がどのような立場から神経質の特殊療法といわれるものを始めたか,その発想的原理となったものは何か,それを一言に尽すことは至難ではあるが、およそ次のように考えられる。
 1902年、彼が呉秀三教授の門下として精神医学に第一歩を踏み出したとき、まず彼が選択した科目は精神療法であった。そして,彼が臨床医として身につけたことは、解釈や意味づけよりも事実のあるがままの観察とその記述が、臨床の基本的姿勢であるという体験であった。初期における彼の精神療法的経験のひとつは、分裂病者に対する室内外の作業療法であったが、この経験は、後に神経質の構造特性として、分裂病者とは対照的に,強い生の欲望の存在を見出すきっかけになったし、また、この存在に関わる絶対臥褥法の原理の発見に役立っている。また。森田は、早くから神経症を神経質(当初は心気症)とヒステリーに二分する考えを明らかにしており、これが、クラーメルやジョリーの影響であることは、森田自身述べているが、以来,彼は常にこの両者を対比する手法を採りながら、神経質の概念を明確化していった。ただし、森田は、最終的にはジョリー説のように、心気症をひとつの疾患単位とは考えず、これを神経質発生の基調となる素質的傾向として形容詞的に扱った。森田が精神療法を専攻し始めて間もない1905年に,彼は尿意頻数を示す強迫観念の一症例に行なった催眠法の治験を報告している。日本への催眠法の紹介が19世紀末頃であるから、森田はいち早くこれを臨床的に採り入れたことになる。彼は,これに強い関心を寄せ、森田療法の成立までのほぼ10年間は、これを神経症の治療として行なっている。この経験によっても、彼は神経質とヒステリーの構造特性の違いを暗示効果の点から観察したようである。ところで当時の神経症の治療の動向として,体質性過敏説とか神経衰弱の中枢神経系の刺激性衰弱説などから、生物学的な治療法も盛んに行なわれていた。
 森田もこれらを種々試みたが、そのすべてが無効に終わった経験は、体質的というよりは、精神的に過敏な状態としての神経質に注目するきっかけともなった。また、森田は、ワイルミッチェルの肥伴療法における安静療法や隔離法、あるいはビンスワンガーの生活正規法、デュポアの説得療法安静法など当時の西欧の治療法をある期間、積極的に施行したが、それが単なる模倣の段階では、いずれも効果は期待し得ないという体験を得た。その結論として彼は、安静法や作業、あるいは説得法も、形式的、教示的であることがかえって神経質には否定的な条件となり得ることから、これらを適切に調節し組み合わせする方法,時期そして期間などの工夫が、自発性や持久性を養う上の重要な決め手になることを知った。
 いうまでもなく、精神分析に対してもまた、森田はかなりの関心を示した。彼の精神療法に関する初期の論文には、意識と無意識の関係が精神現象にとって重要な意味をもつことを指摘しながら、あまりにも現実的、実証主義的な態度の強さのためか、彼は記述現象学的態度の枠を越えようとはしなかったし、そのためか、その後の無意識への理解は遠のき,フロイト説への批判はきびしかった。森田のこうした精神分析に対する態度の当否はともかくとして、フロイトが催眠法を経て次の自由連想法の手技から、彼の理論を確立していった過程は、その構想を異にしているとはいえ、森田が催眠法から臥褥療法へと移っていった過程と、また前者がヒステリーを対象としたのに対し、後者は強迫観念の治療経験を森田説の端緒としたことは、文化の差とはいえ、その後の彼我の説の発展上,何か示唆的で興味深い。

 森田療法の思想的背景
 森田は、西欧の治療法を積極的に実施したが、これらはすべて医学的評価にとどまるものであって、その背後の思想を問わなかった。そして彼は、これら既成の治療法を異なった原理から修正、変更し全く新たな治療体系を創案した。森田説やその療法の特徴を要約すると、前者では「生の欲望」と「ヒポコンドリー性基調」との相対的関係から神経質の構造が明確化されたことであり、後者では個々の症状を止揚する「あるがままの自己実現」といえる。この両者の根底を支えるものは、森田の人間観である。つまり,彼が、人間には「生命の力と向上発展の欲望がある」とする人間の本性と,「この本性の発揮こそ絶えず流転変化する精神活動そのものであり、それに任せ切ったとき、自己本来の性情を見ることができる」という人間観である。この人間本来の性情には、感情的欲求ばかりでなく、倫理性、社会性の秩序愛が備わるという考え方に森田の特徴がある。しかも、この人間観が神経質の臨床を通して得られたことに大きな意義がある。彼が「あるがまま」とするものは、もはや、自然科学的認識にとどまるものではなく、内証への直観があったと見るべきである。いずれにしても、人間の自然な本性を肯定するという治療目標へのスタートは、こうして得られたし、また彼が、観念的より実践性を尊重したところに、森田療法のような行動一体得という系をもつ治療法が創案されたものと考える。


〈参考文献〉
高良武久(編)『森田正馬全集』(1~7)白揚社,
1975
藤田千尋「森田正馬の健康観・自然期一森田療法の思想的背景」
窪忠・佐々木雄司(編)『生命学のすすめ』有閣、1977
横手通有『日本近代思想の形成』岩波書店。1974



3)森田説における生の欲望
藤田千尋(精神科医)


 森田の志向が、終始人間性の理解にあったことは、彼の著作を通読すれば容易に判ることであるが、その基本に「生死の問題」が置かれていた。森田は、この生死の相対的関係から神経質の構造を考えていった。
 彼は当初、神経質発生の一次性の契機に「ヒポコンドリー性基調」を考え、これを森田説の中心に置いたが、この基調が人間の本性である生存の表われであることは、早くから指摘していた。しかし、なぜかこの生存について、当時多くの説明を加えていない。ところが、やがて彼は、この生存欲を「生の欲望」と表現し,神経質理論の中心概念として、発生と治癒の両機制の上でこれを重視するようになってきた。このことは、森田説の原理的な修正ではない、森田の人間性への理解がより深化したものと考えられる。森田が人間性の理解に当たって初め考えたものは、「死の恐怖」であるが、この現象を臨床的に「ヒポコンドリー性基調」として記述した。そして、この「死の恐怖」と相対的関係のものとして「生の欲望」を考え、「ヒポコンドリー性基調」と対比させた。森田は、この両者の関係について次のように述べている。「生の欲望の大なるほど、ますます死の恐怖は大きく、生の欲望の少なくなるに従って、死の恐怖も少なくなってくる。死の恐怖の甚しいものは生の欲望の盛んなことを示すものであり、死の恐怖のないということは、生の欲望の失われたことを証するものである。この生の欲望の種々な程度によって生死の問題も種々おこってくる。もし、生死の無限度の境になりきったときには、いわゆる数学の♾️であって、そこには生死の問題はない」。森田はその後、この「生の欲望」についていろいろ述べているが、これについての理解を総合すると,これは、人間が生命の持続と向上発展を求める欲望であり、
人間の総合的活動の源泉である。したがって、一次性の感情的欲求のほかにも、高次の精神性の欲求も含み、人間のあらゆる生の表現として、これは表わされてくる。
ところで、神経質理論の確立されるまでの森田にとっては、神経質の構造的解明が面の課題であるから,神経質発生の契機に「ヒポコンドリー性基調」の遍在を見抜いたことは、真に卓見ではあったが、いってみれば自然の成り行きともいえる。しかし、それが、人間の「生の欲望」の表われであるという本質の直観は、病態を探る次元では容易に得られるものではない。この本質の洞察こそ、森田説が、単に「ヒポコンドリー性基調」説という固定的な素質論にとどまるものではなく、可動的で、しかも明るい建設的な意味をもつ学説となり、高く評価されるべきものとなっている。ここでは、彼の疾病観や人間観について触れる余裕はないが、彼が神経質の状態を正常性の延長線上にあるものとして受けとめたことも、この「生の欲望」を通して見る彼の人間観の特徴であり、その根底には、人間によせる大きな信頼がある。



4)神経質の発生過程
藤田千尋(精神科医)


  森田が、身体的過敏より精神的に過敏な状態として、さらには、個々の症状よりも人格全体の表われとして神経質を理解したことはさきにも触れたが、その後、これを竹山は「神経質の葛藤は人格反応であり、深層の生物的反応ではない。本来高次の人格層に於ける葛藤が神経質症候なのである」と説明している。これは、さきに挙げたヒポコンドリー性の精神傾向にあるものが、人格面で表わす人間的反応として森田の神経質を特徴づけたものである。森田の人間性の理解からすれば、人間は、「生の欲望」によって絶えず活勤し、努力を続け自己の進化発展を目指すものであり、その精神活動は、自然に自己の生存に適応するような方向に流れるものである。しかし、その進行が、生活のある機会に妨げられるように感じたとき、人格的に葛藤状態をおこし、意識の相対的な関係から「生の欲望」は、次第に「ヒポコンドリー性」の傾向に変成されてゆくのである。高良が、「自己の身心の状態を以て現実に適応し得ないと感ずる不安」とした「適応不安」もまた、この状況に当たる心的状態であり、「適応」への欲求が強まれば強まるほど、相対的に「適応不安」も増大する。ところで、この人格的な状況反応の理解が、何よりもまず、森田の神経質発生の過程を考える上で重要なことではあるが、どのようにして人間の本性が自然に、あるいは現実処理的に発揮されないで、神経質へと発展するか,その成立過程は、おおむね次のように考えられる。たとえば、ある人が発車間際の竜車に飛び乗ったとき、思わず自分の呼吸の激しい弾みや動悸に気づいたとする。しかし、それはそのときだけで忘れられていたものが,その後、類似の状況で同じような感覚に気づいたとすると、それは初めとは違った性質を帯びてくる。しかも,身近かに心臓発作などをおこした人でもあればなおさらである。今まで見過ごしていた同様の感覚も、もはや、見過ごすことのできない不安な性質のものとなり、もしかすると自分も心臓が悪いのではないかという不安(ヒポコンドリー性気分による判断)から、注意はその動悸や呼吸の弾みに集中し、ために感受性は鋭敏になり、注意がますますその感覚に集中されるという精神過程がおこってくる。これが、森田の精神交互作用であり、神経質の意識性の高まりを説明するものである。そうなると、注意は不安な対象に向かうのみで、その前後の条件や経過などは念頭にない。森田は、これを意識の(対目的性と名づけたが、この結果、彼の意識は心臓に固着されてしまう。このように、不安をきたす心臓への推感性の高まりは、自己暗示作用として、心不全を疑う信念(思想の矛盾から)となり、出口のない悪循環のなかへ自らを閉ざしてしまう。以上簡単に神経質発生機転の概略を述べたが、これは個々の症状や類型の差による違いはなく、動機も強い体験を必要としない。それはごく些細な。しかも偶然の心理生理的な事柄で十分である。




5) 森田療法の特徴とその治療過程
丸山 晋(精神科医)


 森田療法は森田正馬により1910年代後半におおよその骨子ができあがり、記念すべき最初の体系的な論文は、「呉教授在職25年記念論文集」(1922年脱稿。1928年刊行)に載っている。そのなかで森田は独自の神経症観を述べている。すなわち「とらわれ」(心理的葛藤)に陥りやすい素質傾向としての「ヒポコンドリー基調説」とそれが神経症(正しくは神経質症)に発展してゆく過程としての「精神交互作用説」である。したがって治療法の着眼点としては、
①素質にむかっては「性格の陶冶」と②精神交互作用に対しては「いわゆる悪循環の打破」が目指される。こうした理論と技法のうえに森田療法の特徴は反映していると考えられる。一方,森田療法は創始期以来さまざまな呼称でよばれてきた。それを列挙してみると「(神経質の)特殊療法」「説得療法」「臥褥療法」「作業療法」「訓練療法」「隔離療法」「家庭療法」「体験療法」「自覚療法」「あるがまま療法」「自然療法」などである。これらはそれぞれ森田療法のエッセンスをつたえている。新福は森田療法の特色として、①無意識を分析しない,②症状の内容を解釈しない、③過去を問題としない,④欲望の是認、⑤自然への随順、⑥作業の重視の6項目をあげている。つまり森田療法の特徴は「日本で生まれ、独自の神経症理論にもとづき、家庭的な雰囲気のもとでの臥標や作業を重視することから、体験的にあるがままの状態を体得させる、段階的にして系統的かつ総合的な治療法である」といえよう。
 その治療過程は、おおむね4期にわけ、各期1~2週間を一応の目安とする。
 第1期:絶対臥褥期  落着いた居室に患者を隔離臥床させ、食事、洗面、用便以外は離床を許さず、面会、該話、ラジオ、喫煙などの気休めを一切認めない。この間苦悶にはできるだけ直面させるようにする。
治療者は一日一回程度の簡単な面接を行ない患者の状態の把握につとめる。患者が退屈を感じ,積極的に活動したいという欲望にかられたときをみはからって第2期に導入する。
 第2期:軽作業期  臥褥後、規規的に起床させ、掃除、洗濯、草とりなどの軽い家庭作業に従事させる。この間日誌を提出させ、患者の心身の状態を知るとともに,指導の材料にする。治療者は面接および患者の体験行動を通じて指導を行なう。
 第3期:重作業期  治療状況になれ、自発性がたかまってくるに従い、段々と木エ・耕作・園芸などの重い作業や責任ある仕事をまかせる。
 第4期:複雑な実際生活期  治療の仕上げの時期ともいえるこの時期は、第3期をさらに発展したものである。学生の場合は学校へ、社会人の場合は職場へと、実社会の生活に自然な形でとけ込めるように、体験場面を拡大するとともに、退院について自己決定を行なうよろしむける。
 上記4期を通じて治療者は患者の教示や説得に重点をおくとともに、時には「不問」という形で症状に直面させ、現実体験のなかから「目的本位」「事実本位」の生活態度をとらせてゆく。これら作業を中心としてのプログラムと並行させ講話、ミーティング、レクリエーションなどをおりこんでゆき、被治療者が社会の一員として、建設的で創造的な生活を持続的にやってゆけるよう指導してゆく。


<参考文献>
高良武久「森田療法」(日本精神医学全書 5)金剛出版 1965
新福尚武「森田療法」(異常心理講座3)みすず出版  1968
森田正馬「森田正馬全集1〜3」白揚社 1974



6) 森田療法における臥褥と作業の意味
丸山 晋(精神科医)


 臥褥の意味
 森田療法の第1期は絶対臥褥と称し、落着いた雰囲気の個室に被治療者を隔離させ、食事・洗面・用便以外は離床をみとめず、面会・談話・ラジオ・喫煙などの気休めも認めない。不安や苦悶。雑念はうかぶにまかさせ、これらにはむしろできるかぎり直面させるようにする。治療者は一日一回程度の簡単な面接を行ない,状態の把握につとめる。体験者の感想は、「最初は治療所にきたという安堵感があるが、しだいに退屈感が増してきて耐えるのが苦しい」といった内容のものが多い。森田も自己の観察からこの期間を、安静一煩悶一無聊といった一連のパターンをもったものとみて、無聊感(退屈感)の出現をまって第2期の軽作業期に移行させる目安としている。
 森田は臥褥の効用として、①診断上の補助(神経質と他の疾病との鑑別),②心身の衰憊の調整。③精神的煩悶、苦悩の破壊(煩悶即解脱の境地の体得)の3つをあげているが、高良は、無聊、活動欲の自覚から起床後の作業に突入する契機としての意義を指摘した。岩井、阿部はさらに、①実践を重視する森田療法に対する心的態度の醸成、②治療者一被治療者間のrapport 形成の2項目を追加している。つまり絶対臥褥期というのは「ただ寝かせておき、規則を守っているかどうかを観察し、第2期に移ってゆく時期を判定するための時期」というだけではなく,森田療法の出発にあたり,いままで習慣化するほどになっていた逃避的な態度に自覚と反省をよびおこし、あらたな生活への意欲と治療への信頼感をよびおこす積極的な意味を、治療者および被治療者にとって,ともにもっているといえる。

 作業の意味
 森田療法を特徴づけるものとして臥褥療法があり、もうひとつのものは作業療法である。第2期は軽作業期、第 3期は重作業期とよびならわされており,森田療法で作業を相当重視していることのあらわれでもある。ここでいう「作業」とは一般に連想されがちな機械的で、流れ作業的な、単調なくりかえしのものをいうのではなく、むしろ家事、園芸あるいは日曜大工的な手仕事を中心としたものをさすといってよい。そのなかにこそ、実際を重んずるという、森田療法の指導理念が浸透しやすいからでもある。軽作業,重作業という区別は明白なものではない。ただし技法上、第2期は活動性をむしろ抑えかげんにし、無聊を補償しようとする過度の行動を慎しませる方向で指示を与え、第3期に入りこの制限をとき,むしろすすんで作業に向かわせ、第4期(複雑な実際生活期)では存分に己れの活動性を発揮するようにしむける。
 これを治癒過程との対応でとらえてみる。臥褥後半の無聊という刺激飢餓の状態から起床した被治療者が健康な生活者としてたちかえるにあたり、注意のむくまま、自発性のおもむくままに行動させる。ただし活動が過度にわたるときは前述のように制限を加える。この第2期の目標は、症状があっても健康な生活者としての形を守りつつ態度や行動をくずさないという「態度形成」をめざす時期でもある。第3期になると治療の場や集団になじみができ、作業の種類も増し,一日が多忙と感じるようになるし、またそのように指導してゆく。この間に持続力・耐久力が養われてゆく。この時期にはこ己れの活動を自覚し,症状が脅威でないことが洞察されてきて「自己洞察期」と名づけられる時期である。第4期に入ると、作業の内容の選択などなしに臨機応変に仕事がなされ,健康の日常生活と殆ど差のない生活が行なわれる。この時期には責任性や仕事をとおして社会に参加しているという社会的連帯感が養われる。
「社会性の獲得と自己実現期」といえる。
 森田自身は作業について「心身を無聊ならしめ自発活動を促がし」「興味を生じ、成功せんとする感情を発し」「次第に活動盛んとなり」「作業に対する持久忍耐力を養成して自信を得ると共に、事物に対する成功の喜悦を反復して勇気を養い得るようにし」「作業に対する価値の感を没却することにして其なすことは自然の人間として為し得べきことをなさしめ」「所謂労作の神聖を体得せしむるにあり」と述べている。
 高良は作業の意義について、①人間は活動しているのが本性であり、症状もこの本来の活動欲から派生したものにほかならない。しかも現在はその派生物にとらわれて、本流が閑却されて適応困難におちいっているのであるから,作業することによってこの転倒を是正することになる。②症状はあってもそのままで作業が可能であることを体験することによって、症状の脅威がいちじるしく減殺される。「やれない」のではなく「やらない」のであることが体験的にわかる。患者の自己防衛的,自己中心的で即我的な態度を外向化させ,即物的・即時的態度にきりかえることなどをあげている。
 岩井、阿部によれば、森田療法における作業の意味は、①人間は活動しているのが本性であるという人間観にねざし、生産的行動の表現されたかたちを作業とする。②神
経質症者の特質である即我的態度を即物的態度に転回せしめる。③症状があってもやればやれるのだという体験的自の獲得。④現在への没入、自他合一体験を通じて精神交互作用、思想の矛盾など心的葛藤を軽減打破させる。⑤自己の活動(生の欲望)の自覚,自己の能力を生かした創造的行為、他に貢献する作業の意義を体得することによって自己中心的人格の向上成熟を図ること、としている。いずれにしても森田療法の要諦である「あるがままの体得」への実践的な営みとして作業を意義づけている。そしてこのことはまた活動が人間の本性にかなっているという深い人間洞察に裏打ちされていることも見逃せない。


<参考文献>
大原・藍沢・岩井『森田療法』文光室,1970
岩井・阿部『森田療法の理論と実際』金剛出版。1975



7) 森田療法における集団療法的意味
丸山 晋(精神科医)


 森田療法は創始期より現在まで実施の原則は入院である。当初は家族の一員として息者をあずかるということからはじまったのであるが、入院者が多くなっても家族の規模が大きくなっただけで、ことさら「集団」というものの見方がはいりこむ余地がなかったとおもわれる。森田は入院者達が似た者同士を岡目八目式に対象化してみる場面を教示的な意味で活用していた程度である。また森田病院出身者を母体としてつくられた同窓会的色彩をもった「形外会」(形外とは森田の雅号)は森田を指導者とする相互研鑽の場であり、アフター・ケァの場であった。こうした集団の存在も集団療法的な場であったということは見逃せない。現在も各森田療法施設がそれぞれこうした性格の会を組織している。しかし力動的精神医学の影響でグループ・ダイナミックスが云々されるようになり,森田療法の場での集団が分析され、意図的に集団療法としての機能的側面が開拓されたのは藤田に負うところが大きい。かれは集団の構造の面から「森田療法家と患者との人間関係が緊密な『タテ』の関係であり、患者相互の関係も性格,年齢,性別、前歴、在院期間などによる『タテ』の序列関係ができる。そして同じ治療目的をもつものという「ヨコ』の関係はかっこに入れられ、この『タテ』関係と家庭的な受容的雰囲気との2つが森田療法の(集団的)特徴である」と解析する。さらに技法の面から「臥褥は、患者が集団生活から断された生活であり、人間関係の外におかれた個の自分に対する期間である。これは自己洞察を集団と個の関係において促すもので、対人関係の断たれた負のかかわりが、同時に正のかかわりの意味にかわる契機となる。作業は集団生活への参加であり、上記の遮断の意味が具体的に現わされる時期である。症状はひとまず止揚して、自分なりの役割を集団生活に提供することで、人にあてにされ、期待される存在、奉仕する存在への自覚の時期である」という意義づけがなされている。実際にはなかば意図的に共同作業をおりこんだり、番制をしくなどして役割を分担したり、ミーティングをもつといった方策がとられる。こうして患者は自己疎外の極から集団の一員として迎え入れられ、自分自身の物の受けとり方や態度行動のとり方の偏りに気づかされ、平等観に目覚めてゆき、社会性が芽生えてくる。また入院日数がながくなるにつれて先輩格として後輩の面倒をみることなどから、患者のもつ自己中心性が崩壊して、自己を「世界内存在」として認識できるようになる。個と集団または社会がきってもきれない関係にあるという連帯感をもつことにより、症状の持つ意味,脅威が緩和され,森田(正馬)流にいえば「小我の偏執から大我に生きる」意味が体験されるようになる。その場合,集団の存在はこの転換を実現させるテコの役割をはたしているといえよう。

<参考文献>
藤田千尋「日本における集団精神療法一森田療法的立場からの検討」『精神医学』10-7,1968




8) 森田療法における外来治療
丸山 晋(精神科医)


 森田療法の原法は入院治療を原則としている。それは森田療法が家庭的な雰囲気のもとでの生活全般にわたる訓練であり指導を旨とした精神療法であってみれば当然のことである。しかし実際問題として、入院生活が可能なものは限られている。森田のあつかった事例中にも1回の外来診療で治った人の話や手紙相談の例があり、入院できない人達にも便宜をはかっていたふしがあるが、それはやはり症状の軽い症例に限られていた。竹山は「森田療法といえば、直ちに入院療法を想起するがごときは、大いなる誤りである。たとえば外来療法,通院療法に依っても,神経質者の生活を指導し、十分なる効果を期待しうる」として外来治療の可能性を積極的に論じ、今日では外来において「森田的アプローチ」がなされることは一般化しているといっても過言ではない。しかし森田の理論をふりかざし「症状はあるがままに、やるべきことをはたしなさい」とか「やれば出来る、ただやらないだけなのだ、だからおもいきって恐怖突入してやってごらんなさい」といったところではじまらない。外来治療の場合は外来という状況を考えた場の settingと働きかけが必要であり、技法上さまざまなエ夫がなされている。近藤(喬一)は外来治療が、入院療法に比しより大きな困難を伴うことを指摘し、次のように整理している。
①通院の場合は独特の治療環境が設定されていないために患者は日常生活の中でよほど強固な主体的な決断をしないかぎり疾病逃避に陥りやすい。(思者、治療者の双方に自己のおかれた状況についての正しい認識がら強く要請される。③外来治療の1対1の面接では、入院と異なり、治療者が患者個人の内的生活についての相当に深い情報と理解を持つことが要請される。④入院治療では患者自身の体験理解を重視し、臥褥や作業に重要な意味を認められるが、外来では言語手段に依存することになるために、森田療法がその本質から切り離されて、単なる治療者の主観の一方的な押しつけ、あるいは一種の thought controlに堕してしまう危険がある。⑤社会保険による外来療法の場合、時間の制約が問題である。⑥外来治療の場合は薬物療法など付加的手段の併用がますます大きな比重を占めることに留意すべきである。これらの困難性を頭に入れながら、藤田による治療の要諦たる4項目を満たす方向が外来治療の大枠であるといえる。すなわち、①自己の生活状況から症状の実体に着目する。②人間性の事実を認める。③決断する。④自己の役割を実践する,ことである。つまり被治療者は週に1回か2回の間隔で通院してきて、診察室で verbal な communication を持つ。この場合「日記」が活用され、被治療者の生活状態を知り、言語化しにくい内面の問題を表出させ、面接の材料を得たりするのに利用されることが多い。その外に他の治療手技と組み合わせて、治療上の難点を克服しょうとする試みもある。




9)森田療法における治療者・患者関係
丸山 晋(精神科医)


 森田療法における治療者・患者関係には、森田に特有なものと、精神療法一般に通じるものとがある。後者はひとくちにいって「健全でかつ助力的な人間は関係」ということになろう。治療者・患者関係は治療の構造を別にしてあるわけがない。森田療法もその例外ではない。しかしこの治療の構造を論じるだけでは不十分である。さらに対象となっている疾病の特徴および社会文化的な背景が考慮されねばならない。つまり構造論的には二重三重の構造をとおして森田療法における治療者・患者関係が論じられなければならない。森田時代のそれをスケッチしてみよう。森田先生は名高い神経質治療の達人で、自らも神経質(症)の体験をもち。その体験を土台として。神経質(当時は「神経衰弱」とよびならわされていた)の治療にとりくみ、同時代の種々の精神療法を逐一追試したのちに新機軸(森田療法)を開拓した人である。したがって先生は神経質の悩みをこころからわかってくれる人であり、ただの医学者ではなく、きわめて合理的な実際家で、物の性を尽くすことを実践しうるほどの生活の達人である。患者は治療をおまかせするというだけでなく人生の師として随順したいと願う。
 「形外会」という入院体験者の集まりでは、指導をうけど謦咳に接することに喜びを見出していたといえる。森田にとってはこうした関係はしごく当然のことであって、ことさら治療者・患者関係としてとらえる必要を感じなかったに違いない。このあたりが森田療法家が治療者・患者関係に無関心でありつづけた要因ともいえる。ただし治療的距離については「不即不離」(つかずはなれず)の立場が治療には大切であるということは森田の念頭にはあった。これに反して精神分析の方ではこの関係が中軸的なテーマにならざるを得なかったのは、やはりその構造による。つまり患者と治療者は治療契約を結び,転移や逆転移を活用しながら治療を行なうのをみればこれまた当然のことといえる。近藤(章)によってフロイト派、ホーナイ学派および森田学派における治療者・患者関係がかなり明確に対比的に整理されたといってよい。すなわち「フロイトに従えば医師は治療の重要な方法である転移関係において,患者の過去の体験の再生過程における、再生のための方法的存在であり、医師は解釈を除く以外には、積極的な立場をとらず,受動的な立場に終始し,治療関係において常に患者に対して距離をおくばかりでなく、その他の社会関係においても無縁の存在であることが期待される。ホーナイにおいてはその関係は、人間対人間の関係であり、唯一方の人間、すなわち医師が治療に関する訓練,理解と経験を持ち。患者の自己実現に対して、助力し得るために,より多くの展望と技術を持っているという違いである。医師は単に消極的にとどまるばかりでなく、激励をもし得る積極的な役割を持っている。・・・・森田においては、治療が主として、患者自身の体験を通じて行なわれるので、医師の積極的な態度がないようにおもわれるけれども、個人的面接,集団的面接を通じて与えられる説明、助言、激励、叱責、批判、 分析などは医師によって積極的に行なわれるのである」とされる。新福は森田におけるこの関係を「先達と後進の関係」と規定している。つまり「先達とは人生の真実をより広く知ったもの、後進とは人生の真実の理解において若いものである。先達は自この体験を通じてえた自覚によって後進がそれを体験し会得するよう励まし、指導する」という。さらに精神分析との対比で、その技法が対人関係を軸に展開されているのに比し、森田療法では「治療状況は治療者・被治療者間に閉じられてなく、むしろ現実に向かって開かれている。治療者は、治療者がかれ自身または現実世界に対してかかわり合う際のかかわり方を指導するのである。したがって治療者は治療者・被治療者間の関係に対してではなく、被治療者とかれ自身または現実世界とのかかわり合い。およびその動きに対してふかい注意を払わなければならない」として森田療法における治療者・患者関係の特徴を論じている。こうした治療者・患者関係が権威的であるという指摘がないわけではないがそれは表面的な理解によるものとおもわれる。このことは、森田療法においては治療者と患者との人間関係が緊密な「タテ」の関係であり、患者相互の関係も性格、年齢,性別、職業、前歴在院期間などによる「タテ」の序列関係ができ、そして同じ治療的目的をもつものという「ヨコ」の関係はかっこに入れられ、この「タテ」関係と家庭的な受容的雰囲気との2つが森田療法の特徴であるという藤田の社会文化的背景からの解析を考えあわせればさらに理解が深まるであろう。この場合、治療者はこのタテとヨコの関係の交叉するところに位置し、核としての役割を負い、その関係は多くの場合求心的にならさるをえない。したがって治療者のパーソナリティや価値観が色渡くでてきやすい。こうした面がさきの権威的という誤解が生じやすい遠因かと思われる。しかし前述の「治療状況は治療者・被治療者がかれ自身または現実世界に対してかかわり合う際のかかわり方を指導するのである」という表現にみられるように、森田療法の根本理念にある「事実唯真」「自然随順」といった面からみれば権威というものの受けとられかたも変わってこざるをえない。以上をまとめてみると、森田療法における治療者・患者関係は、治療者と被治療者が生活の多くの時間を共にすごし、治療者が生活の隅々における実際的な指導を、医学・心理学的知識および経験を中心としながらも。さらにそれをこえて社会や人生の百般にわたる指導をしてゆ<「全人的関係」と表現できよう。そしてこの場合,治療者は被治療者をことさら病人としてあつかわず、「そのままで常態」とみなしつつ、また治療的距離を保つ意味で、患者の訴えを「不問にふす」というような役割態度をとる場合があることも操作のうえからみた治療者・患者関係といってよい。

<参考文献>
森田正馬生誕百年記念事業会刊『形外先生言行
緑』1975
近藤章久「神経症に関する精神分析学派(フロイト及ホーナイ)の理論とこれに対比して見たる森田の神経質症論」『東京慈恵会医科大学雑誌』(73-10)
1958




10)森田療法への批判と期待
藤田千尋(精神科医)


 かつて森田は、自説をドイツの精神医学界へ紹介する努力をしたが、難解に過ぎるとの理由からその実現は果たされなかった。
 戦後、森田療法は、逆に欧米その他諸外国の研究者たちに強い関心を持たれ、国内でもそれと並行的に創始以来の注目を受けるようになった。ほぼ半世紀を隔てた今日、同じ内容のものが異なった扱いを受けていることに、われわれは戸惑いを感じながらも,この現実のなかに森田療法への批判や期待があることを見逃すわけにはいかない。
 諸外国の研究者たちによる森田療法への関心は、確かに 1950年代の前半からにわかに高まってきたが、ごく少数を除けば、その理解は森田の頃と大差はない。今後、この療法がより普遍性のあるものとして発展するためには、森田療法の本質が明確化される必要があろう。従来から、国内でもこの本質解明への努力は、残念ながら少なく、たとえば、新福,土居,近藤(章),池田,あるいは最近の近藤(喬)の業績が挙げられるに過ぎない。国外の研究者のうち、森田の当時と比較すれば、その理解者は確かに多くはなっている。しかし、彼らも森田療法の実施可能性ということになると否定的となる。たとえば、K.レオンハルドは、西欧人にとって「あるがまま」になることの困難さを述べているし,熊坂(K.)も欧米人との自然観の差から、やはりこれが受け入れ難いものであるとしている。I.K.ヴェントは、禅との対比から森田療法がそれと明確に区別されるべき点を述べ、また、西欧の精神治療との比較から森田療法を理解した上で、これが分析的方法に代わることはないとしても、対象者の選択とか、方法の修正などから西欧でも応用の可能性があるとしている。
 K.ホーナイも森田療法に強い関心を持った一人であった。彼女は精神分析との比較が時期尚早であるとしながらも、知的理解よりも情動的体験を重視する森田の治療法に注目し、今後、神経症の治療に相互の知見交換の必要性を述べたが、それも両者の文化的特質や哲学、宗教の差異を十分理解した上でなければならないことを強調した。
 いずれにしても、森田療法における情動的体験の深さは、神経症的人格の治療には優れた方法であり、異なる文化圏にも適用可能な技法の工夫が確かに必要であろう。戦後、日本人の生活様式や心性の変化を理由として、国内でもこの技法的修正の必要性が論じられるようになったが、それには慎重な考慮が必要である。つまり、その修正に対する理論的裏付けがなければ意味がないのである。筆者は、森田の原法と最近のそれとで多少の方法的差異のあることは認めても、それが本質的なものとは思っていない。最後に、今後の森田療法にとって必要事は、治療者教育であろう。これについては、大原らも指摘しているが、現在までのところその実施はない。もし治療者の人格が、治療の専門性をこえて強調されると、一種の教祖的性格を帯び、森田療法の発展を損なうおそれさえも起き得るのである。


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